日々徒然?になる予定
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
*タイトルの間違いは単純に検索避けです*
上の動画で使用されている、ラドさんの『ソクラティックラブ』の歌詞の一部を聴いて考えたこと。
引用所
『君は僕が愛しいと言うけど
それは僕のナニを指すのだろう
僕を僕たらしめるものが何なのか教えてよ
例えば
顔が半分に
腕が二、三本に
眼が五等分にちぎれちゃって
脳みそが隣人に
声が宇宙人に
アレが人参に
変わっちゃっちゃったとしても
君は僕だと言えるの?
僕の何が残っていれば僕なのだろう?』
『私を私たらしめてるものは何か』
個人として結論を残すのならば、思考と好悪と人格と『私』の蓄積経験とその記憶なのではないだろうか。
これがあれば、イレモノがいくら変わろうが、基本は『私』であるはずだ。
しかしこの『私』は蓄積経験とその記憶時点の『わたし』だと言えよう。
簡単に言えば、《5歳の私》と《10歳の私》と《15歳の私》と《20歳の私》が居たとしよう。
そのまま《5歳の私》=《20歳の私》かと言えば違うのは、納得できる筈だ。
《5歳の私》にしてみれば、《20歳の私》はあくまで可能性の一つに過ぎない。
逆に《20歳の私》にしてみれば、《5歳の私》よりも情報量が多くまた肉体的情報も違う。
《20歳の私》は独自の思考を確立しているのに対して、《5歳の私》の精神は未熟だ。
余談として、子供が苦みを嫌うのは、ご存知だろうか。
子供の頃はピーマンなどの野菜が嫌いでも、大人になれば極々普通に食べれるという人も多い筈だ。
子供の舌は大人に比べれば使用年数が短いからこそ、大人よりも舌が敏感だとか。
また、子供は体が小さいからこそ、毒草(苦いもの)を食べないように反応させるとか。
諸説ある。
まあ、正解なんてないのだけれども。
PR
この記事にコメントする